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東京の最新ホテル・ペニンシュラ東京のスタッフがスマートかつ個性的な装いで客人を迎えることができるのは、デザイナーSATOSHI TANAKAの力によるものだ。
シーナ・リンが田中の成功までの道のりを辿るとともに、20種類以上を数えるデザインを手掛けた田中のペニンシュラ東京コレクション制作までの経緯を探る。
ぺージボーイやメートルドゥのユニホームはそれら自体が個性的であるにもかかわらず、ペニンシュラ東京のクラシカルなイメージを醸し出す、なめらかなラインとスマートな仕立てが一体感を生み出している。
有名デザイナーや新進デザイナーがこぞって最新コレクションを発表し、ファッション界のスーパースターの座を射止めようと狙う、パリやロンドンのファッションウィークという、ショーケースの中に閉じ込められた舞台で、デザイナーSATOSHI TANAKAを見る機会は極端に低いだろう。
華やかさと富と名声という誘惑には、特に関心を示さない田中にとって、それは彼自身のスタイルではないからだ。
右に習え、を実践するデザイナー達の中にあって、ファッション界の異端児、田中は、むしろホテルペニンシュラ東京のユニホームデザインに挑むことを好んだ。そしてこの挑戦が、簡単なことではなかったことは紛れもない事実だった。
ワンシーズン限り、という流行の移り変わりの激しい最新ファッションのデザインとは遠い、ユニホームのデザインには比較にならないほどの機密さが要求される。
表面的な面だけに限っても、ユニホームには外見上の威厳が必要とされるが、単に見映えが良いという以上にもっと多くのことが要求される。
数十年間は持続可能なデザインでありがら、個性的かつペニンシュラに相応しく、クラシカルかつ控え目であることは、根本的な審美的必須条件のほんの一部に過ぎない。
実際にユニホームを着用する者にとっては、何よりも機能が重視されることは明白だ。
よくある不満をランダムに選ぶと、袖をまくりにくい、ポケットが少ない、素材に圧迫感があり擦れやすいなどが挙げられる。
無理難題やデザイン簡素化という難問に直面し、田中は、正面からこの挑戦に挑んだ。
自身のビジョンが、ペニンシュラ東京の探し求めていたものと合致しているという確信をもって、田中は初期の段階で「ユニホームとその素材やデザインに関する先入観を捨てる」ことをマルコム・トンプソンジェネラルマネージャーにどのように訴えたのかについて田中は語る。
自らの技術について情熱的に自信を持って語る田中の話を聞いてみると、彼が蕎麦屋の息子とはとても想像できない。
イスの背にもたれるように座り、白髪交じりの髪をかき分けながら、田中はアーティストになることがいかに彼の長年の夢であったかを語る。
その風貌から見て、彼にファッションの才能があることが明白だ。継ぎ当てやほつれなどの装飾が施された半破壊的なダークグレーのジーンズに、仕立てのよい黒のジャケットの白いウイングカラーシャツに、ほどけた蝶タイを合わせた、その綿密に計算された、無造作で、都会的なスタイルを、取り外し可能なサングラスを跳ね上げた丸縁メガネで仕上げている。
「蕎麦屋になるつもりはありませんでした。だからファッションデザイナーになったんだですよ!」
と言った後で、彼は後ろを振り返った時に父親が”本物のアーティスト”だった事に気がついたことを認めている。
ファッション業界における田中のトントン拍子の成功は、彼の性格を雄弁に物語っている。
ファッション学校を卒業したての田中は、当時の日本のファッション業界におけるトップから学ぶことを決意した。
若さや無知の特権だろうか、あるいは、強運がその大胆な行動に味方したのは、田中は受話器を取り、日本ファッション界の巨匠山本耀司に電話を掛けた。
偉大な日本のファッション界の象徴、山本耀司の100人からなる優秀なデザインチームを目指し、彼は商品企画の仕事に就いた。
より創造性の強い職種や昇進を求めて懸命に努力し、夢を決してあきらめることなく山本に働き続けた。
田中の大胆不敵さと頑固なまでの決意に感銘を受けた山本は、ファッション雑誌を取り出し19歳の田中に対し一週間以内にその写真から洋服のレプリカを制作するという課題を出したのだ。
偶然か、田中は前週のサンプルセールで世界に一着しかないそれと同じ洋服を購入していたため現実にカーボンコピーを作成することができたのだった。
こうして田中は「Y’s for Men」や「Yohji Yamamoto Pour Home」ブランドにデザイナーとして本領を発揮することになる。
大変興味深いことに、数年後に彼が山本に事実を白状したとき、山本は笑いながら、あれは技術を試したのではなく情熱を試したのであって、全身全霊をかけて課題に打ち込む田中の姿勢を考えると、レプリカ作成の腕前などは重要ではなかったことを認めた。
それから8年後、同業界に謹んで敬意を払い、田中は時流に乗ってデザイナーとして独立し、広大な世界に戦いを挑んだ。
依頼を受けたペニンシュラ東京のユニホームはさておき、田中のコレクションは彼自身の性格をはっきりと反映している。気取らず、鋭敏で、仕立てが良い彼のコレクションは、ある意味でストリートスタイルに道を開いている。
ファスナー、レザー、フォワードカットが最近の彼のコレクションの主流であるが彼が持つある種の突飛さこそが、ファッショニスタに愛され、頂点を極めるために欠かすことができない資質を兼ね備えたデザイナーとして彼を特徴づけていることに疑う余地はない。
彼の仕事に対する讃辞を述べると、彼は謙虚に
「私は天才ではありません。」
と言い、自身のコレクションに従事しながら一年の大半を費やしたペニンシュラ東京のユニホームでの成功の根拠を説明した。
「これは、SATOSHI TANAKAのコレクションで はなくペニンシュラ東京のためのコレクションです。」
大量のスケッチを取り出し、現在ペニンシュラ東京のスタッフが着用している20種類の個性的なデザインに熱中しながら、田中は楽しそうにページをパラパラとめくる。
ページボーイやメートルドゥのユニホームはそれら自体が個性的であるにもかかわらず、ペニンシュラ東京のクラシカルなイメージを醸し出すなめらかなラインとスマートな仕立てが一体感を生み出している。
デザイナーは一つしか芸のない者というイメージが成功しがちな、移り変わりの激しいファッション業界において、流行の最先端のブティック向けでも、ペニンシュラ東京向けでも、設定に関係なく真のスタイルを取り入れる余裕を誇示するデザイナーに出会えたのは、とても新鮮なことだ。そしてそれはさらなる成功を約束された真の才能を極めたデザイナーの象徴であるといえるのだ。
published by “THE PENINSULA”